-弾圧検断者長野主膳の手紙の中より発見-
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(上)記者会見の様子
   手前は青山忠正氏(仏教大学歴史学部教授・幕末、維新政治史)
(左)史料を示す井伊館長
                 <平成26年1月23日 於井伊美術館>
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此程に 思定(おもいさだ)めし 出立(いでたち)ハ
   けふきく古曽(こそ) 嬉しかりける
    
十月廿七日呼出の聲(こえ)をききて 矩之

             *裏面右下の文字は長野主膳の自筆証明裏書
○松陰は井伊直弼による安政の大獄によって処刑された最重要人物で、その弟子の多くが明治の元勲となった結果、彼等によって殆ど神格化されました。従来、この辞世は松陰の伝記類には必ず記される重要文書でありながら一般には存在すら知られず、専門家の間でさえ現存はただ一点のみと認識されてきました。ところが今回あり得ないものがもう一点新に発見され幕末史に加えられることになりました。

○この辞世は松陰を検断処刑へと導いた敵側の代表者長野主膳の書状巻物の中に貼付され主膳の弟子によって保存されてきたもので、驚くべきことは主膳が辞世の裏面に「松陰辞世」の旨を裏書していることです。長野主膳は安政の大獄を裏で主導し、反対派や尊攘志士たちから悪逆の大魔王と畏怖された人物で、井伊直弼の権力を実質的に代行する「陰の大老」でした。

一説に松陰は処刑前取り乱し、自分の実名さえ間違った等といわれますが、今回の新史料の出現で全くそれが虚伝であることも証明されました。このことは松陰のためにも一般に正しく伝えられる必要があると思います。辞世の署名は「矩之」とあり、従前の実名「矩方」と異るのは死の直前の改名を証明しています。この改名は何か大きな意味があると考えられます。

○因みに今回の発見は井伊館長が現在執筆中の「人間井伊直弼史記-雪の朝に向って」(一部HPに抄録を発表中)の資料探索中に端を発した偶然の発見ですが、直弼の史記において「安政の大獄」を井伊側の者とそして歴史的に正しく評価しようとしている館長に、松陰の霊が何かを働きかけているような因縁めいたものを感じさせます。幕末悲劇の代表者である松陰の最期のことばが、もう一人の時代の犠牲者である大老井伊直弼にゆかりをもつ館長によって発見されたのもよく考えると単なる偶然ではないかも知れません。

○当時の幕末世情は幕権衰弱し、将軍継嗣、条約締結等で内憂外患交々押しよせ勤王佐幕相せめぎ合う大混乱状態でした。ある意味尖閣、原発等諸問題を抱える現代日本社会の危機的状況に相似しているのではないでしょうか。

 井伊氏を名乗る者によるこのようなかつての政治の対立者、あるいは被害者ともみられる人物に係る新史料の発見については、歴史に携る人でも立場が異なる人は正しい評価をしないおそれがあります。今回の件に関しては一方にかたよって、ファナティックな感情で物事を判断しない公平な視線をもつ複数の専門家によって文書が真筆であることの確認をとりましたが皆さん一様に大変驚きの表情でした。
 一般的にいって幕末維新の事柄は「歴史」という悠久の時間から考えるとつい先程の事象ですから、なかなか取り扱いのむつかしいものではあります。

もうひとつ存在した 辞世の書

吉田松
新史料