井伊直弼のラブレター






京都新聞社会面より
(平成24年2月12日)

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与板城地変更に関する幕府内許達書

井伊兵部少輔直朗御書(与板藩第10代)
山水人物図   井伊直安下賜 (伝・小栗宗舟筆)
祖父直弼、孫直忠、 埋木舎の柳をめぐる謡草
直弼
直忠
井伊直弼は部屋住時代にすごした埋木舎に自ら柳を手植し、大切に育てました。直弼が柳木を最も愛賞したことはその別号を「柳王舎(やぎわのや)」としたことでも知られます。
直弼がその柳を根分けして新しい人に与えたときに詠んだのが、この歌です。


 おのれかいとめつる 柳 云々
 
いとせめて 恋しきときも なくさめよ
むすふちきりの かかる柳を  無根水(直弼)



この埋木舎の柳は直弼没後も無事存在し、明治になってから直孫の直忠が訪ねて観柳し、詠んだ歌。


庭前柳
 
我いまた うまれぬさきに おちかうえし
庭の柳はいろそひにけり   直忠
 
 
直弼の歌は果たして誰に与えたのか。愛人の村山たかか、はたまた、長野主膳か。いろいろ想像できます。
直忠の方は当時埋木舎を賜って偲んでいた大久保家に与えたものと推定されます。
いずれにせよ埋木舎の柳をめぐる祖父直弼と孫直忠の運命的な詠草だと思われます。
与板藩主 井伊直安より 二百両上納に対する下賜品


井伊直安より与板町有力町人中川津兵衛に献金協力の褒美として与えられた画幅で、もとは三幅対でした。しかし、慶応4年4月幕軍脱走兵による与板城下放火略奪により一幅は灰燼、二幅のみ幸いにも残されました。大名屋敷の本床にかける大変規模の大きい掛物です。

(写真は一部)
直朗(なおあきら)は与板藩歴代中最も有能な人物で、幕府若年寄をつとめました。本状は歴世の重臣であった小野源蔵に先代同様の知行と役職を保証した書状です。
(最近発見の史料で、誤って上杉家の臣色部氏の文書と間違われていたものです。)
(外部調査預託品)
(外部調査預託品)
外村省吾(半雲)拝領鉄扇

(外部調査預託品)
榊原康政書状
彦根築城に係る榊原康政の木俣守勝宛書状。家康が伏見から江戸へ下る途次、彦根に立ち寄り築城の様子をみて満足した旨伝える内容で、慶長十年頃のものと推定されます。榊原康政と井伊直政は晩年、特に親実で、文面にも直政亡き後の井伊家の行く末を親身になって守ってやろうという康政の行為が現れています。
(館蔵品)
(館蔵品)
奥平久嘉は奥山久賀斉ともいい、奥山流を創始、家康の剣の師にもなりました。岡本宣就と家康は同門の相弟子ということになります。宣就は新陰流も奥山流も印可をうけた兵法の達人でしたが、いわゆる芸者を嫌う家風の井伊家の重臣であったため、流儀の継承者としての名は出てきません。
奥平久嘉印可状
     慶長六年十一月十三日、岡本半介宣就宛
(館蔵品)
上泉秀胤は上泉信綱の二人目の同名の養子(先の秀胤は戦死)。新陰流の承継者、当代一流の軍者岡本宣就は、剣の達人でもありました。尚秀胤の子権右衛門義郷は一時井伊家に仕え長野無楽斉に抜刀居合の術を学んでいます。
上泉秀胤印可状
     慶長六年九月晦日 岡本半介宣就宛


(館蔵品)
外村半雲は旧彦根藩の軽卒出身でしたが藩中で秀才の誉れ高く、維新後は栄進し彦根の指導的立場となりました。館長の母校である彦根東高の前身・彦根中学の設立に中心的役割を果たしました。館長は『彦根東高百二十年史』(1996年刊)に協力しこの軍扇中の半雲の酔余詩の読解弁訳をしています。
(外部調査預託品)

画讃(印)


■達磨画讃
 
すみにごるあとこそみえね谷河の
その水上にわけのほりては
 井伊家歴代の数え方について
(井伊美術館資料管理部)
彦根藩の場合

従来の彦根市史関係の叙述では井伊家歴代の数え方をまちがっています。佐和山に封ぜられた井伊直政を初代とし、13年もの間藩主の任にあった直継を二代とせず、その間の年月を無視して実は三代である直孝を二代にしています。つまり江戸時代の御用学者によって作られた井伊家系図による二代直継無視をそのまま現代も続けているわけです。在位数十日の直恒や直≠ェ代数に含まれているにもかかわらず直継が代数から除外されているのは意識的な作為としか考えられません。これは実証を無視した歴史学で、現在の歴史学としては明らかに間違いです。客観的な歴史認識に基づいて代々の改正をするべきです。当館長は『井伊軍志』(平成元年・彦根藩史料研究普及会刊)等で早くからこのことを指摘し、近年一部では改められるようになりましたが、今尚旧来の表記を採っている関係者が少なくありません。速やかに全面的改正がなされるべきです。
当サイトではあく迄正しい井伊家代数を採用して記述していますので、従来の代数とは異った表現になりますが間違いではありません。御注意下さい。

与板藩の場合

与板藩は彦根城から安中へ、更に西尾、掛川と転封を重ねた直継(直勝)を初祖として代数を数えています。与板に移ったのは五代直
の時ですが、幕初の先祖を初代とする系統的思考を採っています。
※掲載順序は年代順ではありません。
このコーナーでは、与板・彦根両井伊家にとって特別に重要と考えられる史料、古文書や古記録史料類の紹介を致します。
井伊家関係史料文書類
井伊直継知行宛行状(慶長九年九月十一日付)

直政の嫡男・直継(直勝)は彦根藩第二代藩主、のちに安中藩初代藩主となりました。
これは直継が家士松伊(松居)十三郎へ三百石の知行を与えた時の証文です。
慶長七年(寅の年)、初めて行われた検知の規矩を以て三百石を保証するというもので、数少ない直継の史料として貴重です。

    
(寄託調査品)     


井伊直虎愛用の鏡・直筆の四神旗


 「遠州錯乱」と呼ばれる混乱の時期、井伊家では度重なる合戦や謀反の疑いなどにより多くの一族を失いました。直政の父・直親も若くして亡くなり、後継ぎを失った井伊家は存亡の危機に立たされます。この危急に当って井伊家を護持したのが歴代ただ一人の女当主・直虎です。
 直虎は向背定まらぬ乱世の只中を泳ぎ切り、断絶に瀕した井伊家の家名と祭祀を直政へと引き継ぎました。表立って歴代中には数えられませんが、井伊家にとって忘れがたい女武将です。


■鏡
 紐座は菊亀甲亀紐、松に二羽の鶴を配した吉祥文様の鏡です。亀と双鶴が接嘴した図柄は室町時代の特色とされています。 (寄託調査品)





■四神旗
 中国古代の思想に端を発する四神は、東西南北四方の守護神として広く用いられ、朝廷での祭儀においても四神旗が掲げられた例がみられます。直虎は井伊家守護のため、本営の帷幄中にこの四神旗を備え置きました。北方の玄武に代わり、勾陳が配されています。(寄託調査品)
 平成26年5月にNHK「歴史秘話ヒストリア 」にて紹介されました。
 (四神旗の写真はTV放送より)


井伊直安二字書
井伊直安(井伊直弼四男、越後与板藩最後の藩主)が七才で書いたという閑山の二文字です。
おそらく父直弼の膝下において手習いの仕上げのような形で書いたと思われ数点存します。
因みにこの年直弼は大老となって幕末志士の断罪にふみこみます。幕末大動乱の幕が切っておとされる直前に息子が「閑山」とはまこと皮肉です。
朱文で直安と彫った小印が捺されていますが、字体の意匠は父直弼でしょうか。父子の情愛から歴史の浪漫を感じさせる資料です。直安は文画に長けた人ですが、七才とは思えぬ雄渾な筆致です。

井伊兵部少輔(直継・彦根第二代藩主、与板系安中藩祖)から端午の祝儀に帷子等を贈られたことに対する礼状。文中の酒井雅楽頭は酒井忠世(秀忠附筆頭年寄)。本書は諸史歴から推すと、直継が彦根藩主であった慶長十二年以降、安中へ移った大坂陣後の元和末年の間のものとみられます。井伊直継に係る直接的文書が極めて少い現今、貴重な資料の発見といえます。
徳川秀忠黒印状 (井伊直継宛)

名もたか
今宵の月は
みちながら君しをらねハ
事かけて見ゆ

当時の風儀からみるとかなり強烈な艶書というべきもので、直弼の女性にかかわる恋の手紙としては新発見、唯一のものです。柳王舎主人という雅号からその時期は天保十三年過ぎ、たか女と別れて間もない頃のものと思われます(天保十三年冬には側室静江ができます)。まだ完全に別れきらない状況で、習いごとの費用の面倒もみていたようですが、恋歌を贈りどうも淋しくてはじまらないと嘆いています。

持病の頭痛がひどく、文章中の二字は一応「困苦」と読みましたが「田苦(臀苦・・・痔の隠語)」と解釈した方が文章の前後からは自然です。直弼は痔にも往生していました。茶席に座ることも大変苦痛だったようです。

いろいろ持病に苦しみながらも、女だから慎んで生きるように心配するなど大変気を利かせ、さらには名月によせて彼女を慕う歌の中に「たか」の名を読みこんでいます。なお未練十分の直弼の心情が切々と伝わる書状です。

かなり周到に準備された内容ですが、文字は大変癖字の、本人も書いているように乱筆です。若い頃の独特の「痩せた」文字です。直弼は晩年に向かうほど、「肥えた」文字へと変化していきます。

井伊直弼自筆艶書(村山たか宛)

先代直朗の宿願であった与板築城について、その意をついだ直暉による与板村との替地の預りにつき幕府が内許を与えたもので、本来は蒲原郡石瀬村の方に築城の予定でした。この間の消息について従来史料がありませんでしたが、その事情を示す貴重な史料です。年時の部分を欠いていますが、文政の初年、大体三年頃と推定されます。
時の風習や、特に直弼の立場身分柄から考えて宛先はわざと明らかにされていません。しかしかなりなじんだ間柄で、別れて間もない状況、そして近況の伝え方、歌に女の名をよみこんで恋心を訴えるなど、受取人はたか女以外に考えられません。たか女への手紙は今のところ残存しません。その上艶書なので、直弼の性格を知る上でこの上ない貴重資料といえます。(館蔵品)
(外部調査預託品)
(外部調査預託品)
(外部調査預託品)
幕末長州征伐出軍の命令はわれらの先祖・与板井伊家へも下され、与板藩兵は彦根藩軍と共に出征することになりました。それに先立ち、藩は領内有力町民に上納金を半ば強制的に申しつけました。有力町衆の一人中島忠右衛門はとりあえず二百両上納。結果「家来格」に取り立てられましたが、のちに差しつかえがある旨をもって家来格を取り上げられ、代りに狩野周信の二幅対の掛物を拝領しました。御家伝来品といえども、周信の対の画幅が二百両に代ってしまうとは、いかにインフレの幕末でも気の毒なはなし。この掛物はその顛末を記した文書と共に再び発見されましたが、中島忠右衛門にとっては怨みの画幅といえるものかも知れません。幕末騒乱の一端を知る好資料です。
                                                                 

文久3年、天誅組征伐の為出兵した井伊勢の活動を描いたもの。
井伊隊は貫名筑後亮寿(井伊直中六男井伊中顕の男)を藩主井伊直憲の名代として総大将に任じ、三番手まで出軍させ天誅組を討滅しました。
これはその時の戦いの様子を描いたものですが、元亀天正そのままの赤鎧を着用した彦根藩兵が貫名氏の馬印を中心に奮闘。井伊家として多少とも武名をあげることができた最後の戦闘でした。

彦根藩天誅組征伐図
(外部調査預託品)
井伊直弼自画讃
■二重円相図讃
 
万法帰一
万法
無帰一

柳王舎主人

井伊直興述懐


彦根藩第2代藩主井伊右近太夫直継(のち直勝、安中藩初代―与板藩井伊家祖)の貴重な知行宛行状です。宛名の三浦氏はのち井伊家の門閥重臣となります。(井伊家蔵)

                                                 

大坂夏の陣の戦さの法令。井伊家の古記録に記されてあり、古来から一部識者に知られたものですが、原本は湮滅したものとされていました。井伊軍の軍師である岡本半介宣就の自筆原本で大変貴重なものです。(元和元年四月六日付)(井伊家蔵)


                                                 

彦根井伊氏最古の法令。郷方奉行大久保定秀が書き、中野、西郷、鈴木の3人の年寄(家老)が加判しています。従来藩の古記録のみにあり、本書は湮滅したとされていました。井伊直政による最古の仕置状です。(慶長六年十一月十五日付)(井伊家蔵)
                  
                                                 
(外部調査預託品)
井伊直弼の筆になる書画に用いられる号名で最も尊重されるものは「」です。「柳王舎」これは「やぎわのや」と読みますが、これの所用例は残存遺筆中に最も少ないものです。直弼の代表的な自画讃二例を紹介します。
                                                     
開国の元勲とされてきた井伊直弼が桜田に倒れる数日前に書いた最後の自筆長文書状。本書は安政七年(万延元年)二月二十五日に書かれました。内容は国家老三浦内膳正猷(まさみち)宛の江戸城本丸普請に係る長文の指示文書で、内容の濃いものです。直弼の手紙は極めて用意周到綿密なのが通例ですが、本状は珍しく不用意かつ乱文で、直弼文書中最難読の一つです。青色の特別な料紙が用いられています。

尚、三浦内膳の実名を一部史書で「実好(さねよし)」などと誤って伝えていますが、、系譜には記されておらず、「正猷」が正しいのです。

写真は冒頭部分(井伊家蔵)


                                                 
彦根井伊氏第5代の藩主直興は早くに父直時と死に別れ、淋しい幼少期を過ごしました。その幼く心細い直興の歳月を終始温かい目で見守り、陰に陽にバックアップし続けたのが、城代家老木俣守長でした。直興は生涯この重臣木俣守長を徳とし、心の父として慕い続けました。
直興が幼い不遇の頃、守長から「これはめでたい木です。
あなたにも必ず将来めでたいことがおきます様、この木を大切に育てて下さい」と「むべ」の若木を贈られました。果して直興は彦根の藩主となり、幕府の大老ともなって大立身。その間に「むべ」も大きな木に育ちました。本書は還暦になった直興がこの間のいきさつを自身で記して今は隠居している守長(良閑)に贈ったものです。直興の人柄、家臣との深い交流が如実にしのばれる文書です。(井伊家蔵)


                                                 

井伊直弼絶筆


大坂夏の陣 陣取之法度

徳川家康朱印状

井伊直政 佐和山法度 (諸給方仕置状)


天正10年夏、家康は甲州若神子において北条氏直の軍と戦いました。秋になり講和の議がおこり、井伊直政が正使となって北条方に赴き、和議を締結。大きな使命を果たした直政は時に22才。本文書は直政が戎衣の内に秘めた講和の条件を記した重要なメモで、直政自筆の政治文書としては最も時代的に古いものです。(『大日本史料』『井伊直政歴史関係文書』『井伊軍志』等所収)(井伊家蔵)
井伊直政自筆条書
天正11年、徳川に帰属した旧今川家の臣従三浦与三郎元貞に発給された家康の朱印状。筆者は奉行人の井伊直政です。(井伊家蔵)                             
                                                 

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井伊直継宛行状