井伊直政神像
像背墨書によれば、旧佐和山城麓愛宕山仙琳寺(直政終焉の地)に藩主井伊直中(直弼の父)が寛政十年二月一日(直政の命日)に造立奉祀したもの。明治三十四年四月、井伊直政三百年記念祭の節に修復再興されたものです。直政晩年の容貌をあらわしたもののようです。仙琳寺義空の造顕銘があります。
井伊家始祖 井伊共保神像
(平安時代後期)
井伊直孝像
「夜叉掃部」と戦国生残りの猛者連でさえ畏怖した
井伊直孝壮年時の肖像(木像約49cm)
井伊神社は彦根藩第十三代藩主で幕府の大老でもあった井伊直亮が、天保十三年八月彦根城の東郊佐和山龍潭寺のほとりに、遠祖藤原共保の宮として井伊八幡宮を建立したのにはじまります。これは共保の七百五十遠忌に際しての報恩記念事業でしたが、この宮への近郷百姓拝礼御免は封建身分制度下にあって極めて注目すべき処置でした。さらに弘化三年に及び藩主・家中重臣らの寄進寄附によって社殿が造営され、その結構は豪奢を極め、近隣の大洞弁天堂と共に彦根の名所となりました。第二次大戦後社殿は荒廃、鳥居は倒壊。ここに存する神額類も、外部に流出し行方不明になっていましたが、井伊家史料の保存につとめていた当館長の発見購求により救出され保存されているものです。神額の井伊神社の書は明治二年神祇伯兼右近衛中将であった白川資訓の筆。
井伊美術館
井伊神社由緒
 
井伊館長は井伊家の歴史、特に軍事関係の史料と赤備えの甲冑武具の研究を若い時から続けてきました。彦根から京都へ移住し、下鴨に戦陣武具資料参考館を開設した時、旧彦根藩ゆかりの者として井伊家先祖への尊崇の志をあらわすため、邸内に井伊直政をお祀りする小祠をしつらえました。これが現在の京都井伊神社のはじまりです。主神は井伊氏始祖共保と、中興の祖直政の両公です。
 


*上記の代数は直継を與板初代とした場合のもの


明治期彦根城古写真

(上)佐和口の景観

正面の松は古い時代のいろは松。その向こうが写っていませんが天守閣。左手は佐和口の多聞櫓。その左上に見えるのが天秤櫓。橋の向こうにある屋敷は勝家の長屋門。そこから橋寄りの区域は家老三浦内膳の屋敷。手前の橋の下の堀は今は埋められてありません。









(下)極楽橋付近の景観

右手土手の奥には藩庁(現・彦根城博物館)がありました。左手隅は御馬長屋、その向こうには脇家の屋敷が見え、さらにその奥の遠景は、県立第一中学校(現・彦根東高等学校/館長母校)。
井伊直政像(井伊神社御神体
井伊直弼肖像画

與板藩最後の藩主井伊直安が父・直弼を
手描したものです。 (井伊美術館蔵版)

井伊家の人々(関係資料紹介) no.1
井伊友子


※資料は井伊美術館蔵
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井伊直憲写真(三枚とも)

右上は維新前の珍しい束帯像
左上は維新後、断髪した姿。帯刀に注目。
容貌は母親似です。
略系図

この写真は井伊直憲(直弼嗣子)就封時の古写真と共に井伊コレクション中より発見。平成20年3月上旬、毎日新聞・読売新聞他各社によって報道されました。
直弼の正妻昌子は丹波亀山(現亀岡)五万石松平紀伊守信豪の次女(初名多喜→貞→昌子)で弘化3年(1846)直弼のもとへ輿入れしました。昌子算えで12歳、実際は11才という幼な婚で、この時直弼はすでに32才でした。この結婚は将軍家からの養女による結婚話を打ちこわすための、いわば急拵え。先行既成事実を楯とした井伊家の強行な結婚政策、政略結婚でした。藩世子である直弼もこの結婚話には一切介入出来ず、内心不満が大いにありましたが、その為かどうかこの二人に子供は生まれず、結婚14年後、直弼は桜田門に斃れることになります。昌子はそれから25年後、明治18年(1885)51才の生涯を閉じました。
 孤独の中で、しかし強く生きたであろう勝気そうな感じがその風貌から窺えます。
 

→井伊家重要史料文書へ
井伊直政自画讃
井伊直政若年時の鶏戯画(左)と馬の絵(右)

彦根職人町弥惣右衛門謹作。
美化された青年像。
右:井伊共保(ともやす)神像
井戸から生まれ出たという誕生伝説をもつ始祖藤原共保。智能抜群膂力衆に擢んで遠州四隣の敵を畏怖させた武人の風貌がよくあらわされています。
井伊昌子像(直弼正室)

井伊神社祭壇灯籠
 井伊家の祖共保、同じく中興の祖直政を主神として祀る井伊神社は、彦根城の東郊佐和山山麓に幕末の弘化二年彦根藩十三代藩主井伊直亮(直弼の兄)の命によって造営にかかり、同三年出来しました。この灯籠は祭壇の左右に供するため、井伊家の重臣木俣土佐守易ー石香斉ー(城代家老)と小野田小一郎為典ー簡斉ー(仕置家老)が連名で寄進したものです。神社は維新後荒廃し、灯籠は行方を失っていましたが、井伊館長の発見により由縁の当館に置くことになりました。同社の神額も二十数年前の館長の発見に係るもので、実に不思議の縁というべきです。
 
 【銘文左右同一】
  「木俣土佐橘守易
   小野田小一郎藤原為典」
  「奉獻一基
   弘化ニ乙巳年八月吉祥日」
井伊共保神像
井伊家の始祖共保の神像です。
共保を神格化して甲冑を着せていますが、多分に想像的で、実証性はありません。井伊家の士たちが「井伊八幡」として大切に拝礼したもののひとつです。
井伊直政像